渋谷申博:「神社に秘められた 日本書紀の謎」

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第1章 高天原の謎
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天地のはじめに出現した神は誰か? p.12

古事記の冒頭に記述: 「天地(あめつち)初めて発(ひら)けしとき、高天原(たかまがはら)に成れる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に(かなむすひのかみ)」
三神→天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神

日本書紀の冒頭に記述: 「古(いにしえ)に天地いまだ剖(わか)れず陰陽(いんよう)分かれざりしとき渾沌(こんとん)たること鶏子(たまご)の如(ごと)く・・・」 
要約: どろどろのかたまりだった世界は時間が経つと濁りが沈殿して、きれいな上澄みができた。そこに神が生じた。それはまるで葦(あし)の芽のようであったが、成長して「クニノトコタチ」という神になった
クニノトコタチは、古事記にも記述がある・・・三神の後に登場する「ウマシアシカビヒコデ」、「アメノトコタチ」に続き「クニノトコタチ」が登場
古事記では、「アメノトコタチ」までを「別天(ことあまつ)つ神」と特別扱いし、「クニノトコタチ」と差をつけている

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古事記: 「アメノミナカヌシ」、「タカミムスヒ」、「カムムスヒ」、「ウマシアシカビヒコヂ」、「アメノトコタチ」 以上、別天つ神
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日本書紀: 「クニノトコタヒチ」、「クニノサヅチ」、「トヨクムヌ」
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造化三神: 高天の原に最初に成り出た独り神の三柱で、アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カムムスヒ

最初に出現した神は、「アメノミナカヌシ」なのか、「クニノトコタチ」なのか?

日本書記は、なぜ「別天つ神(ことあまつかみ)」を語らないのか?
古事記では、「別天つ神(ことあまつかみ)」は身を隠したと記述している
しかし、「タカミムスヒ」はアマテラスの「天の岩戸隠れ」や「天孫降臨」で登場し、「カムムスヒ」は「オホクニヌシ」の神話で二度姿を見せる

■熊野三山の奥の院 玉置神社(たまきじんじゃ)

玉置神社(たまきじんじゃ): 主祭神: クニニトコタチ 奈良県吉野郡十津川村 →玉置神社

■クニノコタチが最初の神か?

(著者の推論)
古事記と日本書紀の原資料の天皇家所伝の神話では、「クニノトコタチ」であったと思われる

その「クニノトコタチ」の子孫から「イザナキ」と「イザナミ」が出て、その子として「アマテラス」が生まれる
その血筋を引くのが天皇家である

天皇家の出自をを示す神話としてこれで十分であるが、国の歴史書としては不十分だと、古事記と日本書紀の編纂者は考えたのではないか?
編纂者らは中国などの史書も目にしており、国家の歴史は天地創造から始まるべきだと考えたのではないか?

しかし、そこから先の対応が異なった:
古事記: 「クニノトコタチ」の前に創造神の系譜というべきものを付加した
 それは本来の神話とは無関係であるため、「神々は身を隠した」とした

日本書記: 「クニノトコタチ」が最初の神という原型を留めたまま、神が出現するまでの過程を述べることで、創造神話に代えた
 そのような神話は日本になかったので、「淮南子(えなんじ)」などの記述を参考にした; 淮南子(えなんじ): 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書

このように2つの創世神話ができたが、神道界ではとくに問題となった様子はない

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「日本書記」でなぜ、イザナミが死なないのか? p.20

■イザナミが葬られた三重県熊野市有馬町 花窟神社(はなのいわやじんじゃ)

日本書紀 「一書(あるふみ)」という別伝・異説が挿入されている
「イザナミは火の神を生んだときに体を焼かれてしまい神退去(かむさ)りなされた。それゆえ、紀伊の国の有馬に村に葬り奉(たてまつ)った。土地の者たちは花の季節には花を以ってお祀りする。また、鼓や笛、幟を用いた歌舞を奉納する。」

「イザナミ」を葬った場所:
日本書紀 花窟神社(はなのいわやじんじゃ)三重県熊野市有馬町
古事記 出雲国の境の比婆山

古事記:
イザナキは黄泉の国(よみのくに)に出かけ、イザナミを連れ戻そうとする
イザナミの姿をみて驚き逃げ出す
逃げるイザナキ、追うイザナミ
黄泉の国との境を大岩で塞いだイザナキに対して
イザナミは、「こんなことをなされるのであれば、私は日に1000人の人間を殺します」と宣言
イザナキは、「それなら私は日に1500の人が生まれるようにしよう」と答えた
このあと、穢れた体を海で禊(みそぎ)を行ない、このときにアマテラス、ツクヨミ、スサノウが誕生した

■イザナミが死なない世界

日本書紀:
「イザナキ」と「イザナミ」は、日本国を産み終えて、「私たちは大八島州(おおやしまくに、日本のこと)と山川草木を産み終えた。どうして天下の主となるべき者を生まずにいられようか」と相談する
そして、「オオヒルメノムチ(アマテラスのこと)」を生む
その姿があまりに立派なので、「イザナキ」と「イザナミ」は彼女を地上に留めておくべきでない考え、天上を治めさせることにする
続いて、「ツクヨミ」を生み、これも天上に送る
次の「ヒルコ」はできそこないなので船で流し、
その次の「スサノウ」は泣いてばかりいたので根の国に追放してしまう
これで、神生みは終わり・・・古事記と比べ、あっさりしている
また、イザナミは死なないので、黄泉の国にも行かない

■イザナキの稜の上に建つ神社 伊弉諾神宮(いざなぎじんじゃ)

伊弉諾神宮(いざなぎじんじゃ):→伊弉諾神宮

一方、日本書紀はイザナキの死については明確に語る
「イザナキの尊(みこと)は神としての仕事をすべて終えられて霊運当遷(あつしれ、高貴な神が死ぬこと)なされた。幽宮(かくれみや)を淡路国につくり、静かに長くお隠れになった。」
古事記では、「そうしてイザナミの大神は淡海(あわみ)の多賀に坐されております。」と唐突に述べている。生死について記述がない

淡海(あわみ)の多賀は、多賀大社(滋賀県多賀町)
「淡海」を「淡路」の誤植であるとすると、最終鎮座地は、伊弉諾神宮(いざなぎじんじゃ)(兵庫県淡路市多賀)となる

■成長する夫婦神と権威ある家長神

古事記と日本書紀では、「イザナキ」の「イザナミ」の性格付けも異なる
古事記 夫婦神が成長していく 「〜の神」→「〜の命(みこと)」→「〜の大神(おおかみ)」
 アマテラス: イザナキが禊(みそぎ)をした時に生まれる

日本書紀 「イザナキ」と「イザナミ」は、最初から権威ある神として登場する
 アマテラス: 「天下を治める神」を生み出そうとする明確な意図のもとに最高神となることが定められている

→権威ある家長神としてのイザナキと、その正当な後継者としてのアマテラス
→この構図が、アマテラスの子孫たる天皇の権威付づけになっている

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ククリヒメがイザナキにささやいた謎の言葉とは?

■日本書紀に一度しか登場しないククリヒメ

ククリヒメ・・・日本書紀に一度しか登場しない神
イザナキが黄泉の国の穢れた体を清めるために海で禊を行う場面で登場
アマテラスの誕生の記述なし
「このときにククリヒメの神、また白(もう)すこと有り」の記述のみ
内容は不明である・・・忌むべき内容か言葉が含まれていたので、日本書紀は秘匿した?

■いざ、黄泉比良坂へ 伊賦夜坂(いふやさか)

古事記 「黄泉比良坂は、今、出雲国の 伊賦夜坂 いふやさか という」

■黄泉につながる出雲 揖夜神社(いやじんじゃ)・黄泉の穴

黄泉比良坂(よもつひらさか): 生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所  島根県松江市東出雲町 →黄泉比良坂

揖夜神社(いやじんじゃ): イザナミを祀る神社   →揖夜神社

黄泉の穴: 出雲国風土記 
猪目洞窟(いのめどうくつ): 出雲国風土記に「夢の中でこの洞窟へ行くのを見たら必ず死んでしまう。昔から黄泉の坂、黄泉の穴と呼ばれる」と記されている 島根県出雲市猪目町

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禁断の神話、天皇はスサノオの子孫か?

■アマテラスが海の中に鎮座させた三女神 宗像大社(むなかたたいしゃ)

宗像大社(むなかたたいしゃ): 日本神話に登場する日本最古の神社の一つ →宗像大社

アマテラスの三女神:
 陸地にある沖津宮(おきつみや)、
 その沖の大島にある中津宮(なかつみや)、
 玄界灘の中央の沖ノ島にある辺津宮(へつみや)

神勅「汝三神 宜しく(いましみはしらのかみ よろしく) 道中に降居して(みちのなかにくだりまして) 天孫を助け奉りて(あめみまをたすけまつりて) 天孫に祭かれよ(あめみまにいつかれよ)」~日本書紀~
意味: 宗像三神、宗像の地に降って、歴代天皇を助けなさい、そうすれば歴代天皇があなたたちを祀るでしょう

■古事記が描く誓約(うけい)は破綻(はたん)している

アマテラスとスサノウの誓約(うけい): アマテラスとスサノウの誓約

アマテラス → 宗像三女神: ダギリヒメ、イチキシマヒメ、タキツヒメ
スサノオ → 五柱の男神: アメノオシホミミ、アメノホヒ、アマツヒコネ、イクツヒコネ、クマノクスビ

古事記 1つの記述
日本書紀 6つのバージョンがある

■6バージョンもある誓約神話
■アメノオシホミミの本名が謎を解くカギ 太郎坊・阿賀神社

太郎坊・阿賀神社: アメノオシホミミが祀られている 滋賀県東近江市小脇町

(推測)
誓約神話の原形は、スサノウが五男神を生んでアマテラスに勝つというものだった
アメノオシホミミがアマテラスの長男でありながら、降臨して天下を統一する役割を息子にニニギに明けわたしている
・・・アマテラスの命を受けて地上の平定に向かう「天孫降臨」神話は、ニニギを主人公としているので、アメノオシホミミが入り込む余地がなかった

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三種の神器「八咫鏡(やたのかがみ)」は3枚あった?

■八咫鏡とアマテラスの天岩戸隠れ

三種の神器: 八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ) 、八尺瓊勾玉(やさかのまがたま)

八咫鏡(やたのかがみ): 八咫鏡は三種の神器のひとつ  →八咫鏡(やたのかがみ)
八咫鏡は伊勢神宮にある御神体と、その御神体を象って作ったという皇居にある形代の2つがある

■八咫鏡と姉妹鏡を神体とする日前神宮・國懸神宮

日前神宮・國懸神宮:
1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる 和歌山県和歌山市
八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた
天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある

■もう一つの八咫鏡ゆかりの神社 鏡作坐天照御魂神社

鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ):
4から5世紀にかけて鏡類を製作鋳造していた鏡作部がこの地一体に居住し、御鏡(天照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として開いた神社 奈良県磯城郡田原本町

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第2章 出雲神話と国譲り神話の謎
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スサノオはどこに降下したのか? p.50

■新羅の地が気に入らなかったスサノオ

古事記 出雲に降臨
日本書紀 (1)出雲の簸の川上流 (2)安芸国 (3)記述なし(出雲と推測) (4)新羅 (5)記述なし(新羅と推測)

■スサノオと朝鮮の奇妙な縁

(3)の一書では、ヤマタノオロチを斬った剣のことを「韓鋤の剣(からさいのけん)」としている → 韓から伝来した剣
古事記 スサノオの子のオホトシにはカラ(韓神)とソフリ(朝鮮系の神と推測)がいる

日本書紀にスサノオと朝鮮との関係の記述があるのか?
(i)スサノオは朝鮮から渡ってきた (ii)朝鮮系の渡来人にスサノオを信仰する集団がいて神話を作った (iii)スサノオを奉斎する氏族や地域の人々の一部に朝鮮と交流があった ・・・ いずれも不明

■有功の神、イタケルを祀る 伊太祁󠄀曽神社

伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ):
我が国に樹木を植えて廻ったと日本書紀に記される「イタケル」を祀る神社 和歌山県和歌山市伊太祈曽
イタケルは、天から降りる時、たくさんの樹木の種を持って降りたが、韓郷(からくに)に植えないで、筑紫から植え始めて大八州(おおやしま)の国の全土を青山とした
「紀の国に所坐(ましま)す大神」大神がこの神である

熊野神社: 和歌山県新宮市新宮
熊野神社は、熊野三山(熊野本宮大社〈本宮〉、熊野速玉大社〈新宮〉、熊野那智大社〈那智〉)の祭神である熊野権現の勧請を受けた神社

■イザナキの愛し子を祀る出雲の熊野大社

出雲の熊野大社: 島根県松江市 →熊野大社
祭神は次の1柱 「伊邪伎日真名子(いざなぎのひまなご) 加夫呂伎(かぶろぎ)熊野大神 櫛御気野命」
伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご): イザナギが可愛がる御子
加夫呂伎(かぶろぎ): 神聖な祖神
熊野大神(くまののおおかみ): 鎮座地名・社名に大神をつけたもの
櫛御気野命(くしみけぬのみこと): 須佐之男命の別名

紀州と出雲に熊野神社があることについて・・・分社を紀州に建てたとういう説と、紀州から出雲に伝わったという説がある

韓竈神社(からかまじんじゃ): 出雲市唐川町 →韓竈神社
祭神のスサノオが新羅に渡られ、わが国に「植林法」やタタラ製法、鍛冶技術などの「鉄器文化」を伝えられたとされる
カラカマのカマは、溶鉱炉を意味するとも言われている
また、この神社より奥は古くから産銅地帯といわれ、金掘り地区の地名や自然銅、野タタラ跡もあり、鉄器文化の開拓と深い関係がうかがわれる
「岩船」伝説でも知られており、この大岩は、新羅から植林法や鉄器文化を伝えられるときに、素盞嗚命が乗られた船であるといわれている
→ 分社を紀州に建てたとういう説の方に部がありそう

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オホモノヌシがオホクニヌシに言った謎の言葉とは? p.58
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■海の向こうから来た名乗らない神 出雲大社 →出雲大社

出雲大社の境内にあるムスビの御神像 「オホクニヌシ」 波の上の玉が「オホモノヌシ」
オホクニヌシ: スサノオの子孫で八十神という兄弟神を倒して地上の王となった神

タカミスミヒの子であるスクナビヒコの協力を得て国造りを行っていくが、その途中でスクナビヒコは常世の国へ去ってしまう
落胆したオホクニヌシの前に見知らぬ神(あとの神話でオホモノヌシと判明する)が海を照らしながらやってきて
「岩船」伝説でも知られており、この大岩は、新羅から植林法や鉄器文化を伝えられるときに、素盞嗚命が乗られた船であるといわれている
「私をよく祀れば一緒に国造りをしてやろう。そうしなければ開発は失敗するだろう」と言った

「どうお祀りすればよいのでしょう?」と問う
「大和の御諸山(三輪山)に祀れ」と答える
古事記も日本書紀をほぼ同じ

日本書紀 「しからば汝(なんじ)はこれ誰ぞ」と問うと「吾はこれ汝が幸魂奇魂(さきみたま くしみたま)なり」という
幸魂(さきみたま ):恵みをもたらす神霊
奇魂(くしみたま):めだたいことをもたらす神霊
→「私はあなたの恵みやめでたいことをもたらす神霊だ」
初対面の神に「私はあなたの幸魂奇魂だ」と言われるとはどういくことなのか?

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■大和朝廷に崇敬された三輪山の神 大神神社(おおみわじんじゃ)
大神神社(おおみわじんじゃ) 奈良県桜井市  →大神神社

なぜ、オホクニヌシは出雲で国造りをしていたのに、その手助けをする神(オホモノヌシ)を出雲から遠い三輪山に祀るのか?
オホモノヌシは、オホクニヌシと一体の関係のある国つ神であると理解されるが、大和朝廷で崇敬されていた神のようだ・・・

日本書紀に三輪山の神が大和朝廷にとって重要な神であったとの記述がある(崇神天皇の記事)
崇神天皇(すじんてんのう)の後継者選び
子の豊城命(とよきのみこと)と活目命(いくめのみこと)をお呼びになり、
「お前達二人どちらも可愛い。どちらを後嗣にするかを決めたい。二人それぞれ夢を見なさい」と言われる。
二人はそれぞれ浄沐し(川で身を清めて髪を洗う)、祈りを捧げて眠る
兄の豊城入彦命は、「御諸山に登って東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を空に振り上げました」と申し上げ、
弟の活目入彦命は、「御諸山の頂に登って、縄を四方に引き渡し、粟を食む雀を追い払っていました」と申し上げる
天皇はこれらの夢を占い、「兄は専ら武器を用いたので、東国を治めるのがよいであろう。弟は四方に心を配って、稔りを考えているので、我が位を継ぐのがよい」 と詔された
→三輪山が皇位継承に関わっていたことが推察される

皇位継承に関わるような神が、なぜ出雲の最高神と同一視されるのか?
(推測)
オホクニヌシの前に出現した神は、オホモノヌシではなく、もとは出雲の神だったのではなかろうか?
記紀の編纂者は、オホモノヌシにすり替えることによって、国造りはオホクニヌシの手柄ではなく、大和の神の手助けでできたものに見せかけようとしたのではなかろうか?

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■海を守るオホモノヌシ 金刀比羅宮
金刀比羅宮(こんぴらぐう) 香川県仲多度郡琴平町  →金刀比羅宮

オホモノヌシは、金刀比羅宮(こんぴらぐう)にも祀られている
同じオホモノヌシであるが
金刀比羅宮の祭神→中国・四国・九州を管轄
大神神社の祭神→近畿以東を管轄

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地上を平定したのはタケミカヅチかフツヌシか? p.64

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■「古事記」と「日本書紀」で異なる地上の平定者

古事記の国譲り神話  →国譲り神話

オホクニヌシの国造りが終わった頃、
アマテラスは「葦原中国は私の子、「アメノオシホミミ」が治めるべき国である」と考え、彼に降下を命じた
アメノオシホミミは天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原のアマテラスに報告した

アマテラスはオホクニヌシをはじめとした国つ神がわがもの顔で闊歩しているのが気に入らなかった

タカミムスヒとアマテラスは、国つ神たちを帰順させるために、アメノホヒを派遣 → オホクニヌシの家来になる
次に、アメノカヒコを派遣 → オホクニヌシの娘と結婚
剣の神であるイツノオハバリを派遣しようとするが、彼は息子の「タケミカヅチ」を推薦し、その派遣がきまる
タケミカヅチは、武力を背景に統治権の譲渡を迫る
オホクニヌシの息子の「コトシロムシ」は、承諾
オホクニヌシのもう一人の息子の「タケミナカタ」は、戦うがタケミカヅチに殺されそうになり、諏訪(長野県諏訪市)に逃げ込む
ここにいたって、オホクニヌシは国を譲ることを承諾した

この話が神武天皇の東征の話の伏線になっている
神武天皇の一行が熊野で悪神の祟(たたり)にあって意識を失うのを、天上で見ていたアマテラスとタカミムスヒは、タケミカヅチに「地上はお前が平定したところなのだから、行って助けてやれ」と命じる
タケミカヅチは、自分が出向くまでもなく、地上平定に用いた剣を下してやれば十分だと答える

日本書紀も神武天皇の条に同様の東征の内容が収録されているが、古事記の国譲り神話のようにうまく話がつづかない
→日本書紀では地上の平定は、「フツヌシ」だからである

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■神格化された剣 フツヌシ

日本書紀での国譲り神話
二度目の使者が失敗するところまでは古事記と同じ
武力による使者として選定されたのが、古事記の「タケミカヅチ」ではなく、「フツヌシ」という神である・・・「フツ」はものを切るときの擬音語
しかし、「タケミカヅチ」が異論を唱える → 「タケミカヅチ」を「フツヌシ」の補佐として派遣
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■鹿島神宮と香取神宮と春日大社

常陸国風土記(ひたちのくにふどき): 奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌

「高天原より降り来し大神の名を香島天之大神(かしまのあめのおおかみ)と称す」
香島天之大神=「タケミカヅチ」
「タケミカヅチ」は常陸に降下して東国を平定した神

なぜ、タケミカヅチは国譲りの立役者になったのか?・・・藤原氏の影響がありそうである

多氏(おおし)、物部氏(もののべし) → 鹿島神宮をもともと奉斎していたが、没落により、祭祀権が藤原氏に移った
藤原氏は、鹿島神宮と香取神宮を重要視
タケミカヅチとフツヌシを両社から勧請(かんじょう 神の分霊を移し祀ること)して、春日大社を創建した

鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中 →鹿島神宮
祭神:タケミカヅチ 全国にある鹿島神社の総本社 香取神宮、息栖神社とともに東国三社の一社

香取神宮 千葉県香取市香取 →香取神宮
祭神:フツヌシ 全国にある香取神社の総本社 鹿島神宮、息栖神社とともに東国三社の一社

春日大社 奈良県奈良市春日野町 →春日大社
祭神 第一殿:タケミカヅチ 第ニ殿:フツヌシ 第三殿:藤原氏の祖神 全国に約1,000社ある春日神社の総本社

藤原氏がタケミカヅチを重視した理由:
香島天之大神は崇神天皇(すじんてんのう)の前に現れ、 「私をよく祀れば、あなたが治める領土の大国も小国もうまく統治できるyいうにしてあげよう」と言った  ・・・出雲の国譲り神話と類似している(オホモノヌシがオホクニヌシに言った言葉)
→タケミカヅチは天皇の統治を助ける神
→伊勢神宮の他に、鹿島神宮と香取神宮に「神宮号」が許されている理由だと考えられる

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■タケミカヅチはフツヌシを帯びていた?
フツヌシ→剣を神格化(剣の力を持つ神)
タケミカヅチ→剣との縁も深い 父のイツノオハバリはイザナキが火の神カグッチを斬ったときの剣
古事記ではその時に流れた血から、タケミカヅチは生まれた (立派な剣の神)

タケミカヅチはフツヌシは、同一の神、あるいはタケミカヅチが帯びていた剣がフツヌシだったとも思われる

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タケミナカタは強いのか弱いのか? p.72

■古事記と諏訪の伝承ではまったく別神のタケミナカタ

古事記では、タケミナカタ(オホクニヌシの御子神)は引き立て役となっている
怪力をアピールして登場しておきながら、タケミカヅチに投げ飛ばされ、諏訪まで逃げたあげく、命乞いまでしている

諏訪も伝承では、全く異なる(諏訪の武勇伝)
タケミナカタはもともと諏訪にいたモリヤ神を打ち破り、諏訪地方の統治権を譲り受けた
地域の人々を悩ませていた蝦蟇(がま)の神を退治した→諏訪湖が静かになった
諏訪大社は軍神として有名

日本書紀では、タケミナカタは登場しない
オホクニヌシは、子のコトシロヌシの意見をいれて国譲り決める(武力衝突はなく、出雲は無欠開城)

(推論)
古事記の「タケミカヅチ」と「タケミナカタ」の戦い・・・「タケミカヅチ」の武勇を強調するために創作されたのでは?

■神話時代版 川中合戦 一之宮貫前神社

群馬県には、「タケミナカタ」と「フツヌシ」が伝承されている
一之宮貫前神社(いちのみや ぬきさきじんじゃ): 群馬県富岡市 →一之宮貫前神社
咲前神社(さきさきじんじゃ): 群馬県安中市

両社の社伝によると、「フツヌシ」は「タケミナカタ」を追って、千曲川周辺で決戦した
フツヌシを奉斎する物部氏と、タケミナカタを奉斎する諏訪地方の豪族との領土争い → 川中島の合戦とも言える

■守矢氏が守るミシャクジ神 ミシャクジ社

ミシャクジは、諏訪を中心とした信仰 祭祀: 守谷氏
タケミナカタの諏訪侵攻以前から、守谷氏によって祭祀されていた神であった
→タケミナカタが諏訪を占領したと考えられる

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オホクニヌシが司ることになった「幽事」とか何か? p.78

■神無月(神在月)とは

旧暦の10月10日の夜、出雲大社(いずもおおやしろ)にほど近い「稲佐の浜」に出雲大社の神職が並び、神迎神事(かみむかえしんじ)がおこなわれる 出迎えられた神々は、出雲大社へと案内され、九十社(くじゅうしゃ)という社殿に落ち着く
神々は上宮(かみのみや)で「神議り(かみはかり)」という会議をする
そして、旧暦の17日に出雲大社を発(た)ち、出雲の幾つかの神社をめぐったうえで、26日にそれぞれの土地に帰る

出雲に集まった神々が話す内容は?
縁結びの相談・・・それぞれの氏子の名簿を見せ合いながら相性のいい男女を探す
酒造り、料理、奉公、里帰り・・・

神魂神社(かもすじんじゃ)では、イザナミの追悼のために神々が集まるとされている
神魂神社(かもすじんじゃ): 島根県松江市大庭町 →神魂神社
主祭神:イザナミ(伊邪那美命) 配祀神:イザナキ(伊弉諾大神)

■神無月に出雲に神々が集まる理由とは?

日本書紀の一書
タカミムスヒがオホクニヌシに対して国譲りを迫る言葉:
「それ汝が治(しら)す顕露(あらわ)の事は、これ皇孫(すめみま)治すべし、汝は神事(かみごと)を治すべし。」
(意味)あなたが治めている現実世界は、皇孫が治めるべきものである。あなたは退いて目に見えない世界を治めなさい。」

オホクニヌシが国譲りを承諾した言葉:
「吾が治す顕露の事は、皇孫当(まさ)に治めたまうべし。吾は退(さ)りて幽事(かくれたること)を治めむ」
(意味)私が治めていたこの現世の政事は、皇孫のあなたがお治めください。 私は隠退し、これからは幽れたる神事を治めましょう

「オホクニヌシは、地上の統治を皇孫に譲る代わりに、神事・幽事を司る」ということ
この「神事・幽事」を神々の管理の意味と解釈すると、オホクニヌシが年に一度神々を招集するのが神無月の起源だとする

さらに、日本書紀には「(オホクニヌシは)長(とこしえ)に隠れましき」とある・・・

■水中に隠れたコトシロヌシ 美保神社

美保神社(みほじんじゃ): 島根県松江市美保関町 →美保神社
美保神社は「オホクニヌシ」の子である「コトシロヌシ」を祀る神社
国譲りを迫る使者がオホクニヌシのもとに訪れた時、コトシロヌシは美保関沖の小島で釣りをしていた
それを伝えられたコトシロヌシは、「国譲りを承諾すべき」とオホクニヌシへ伝言を残し、海上に青柴垣(あおふしがき)をつくり、船の上からそこへ去った(古事記・日本書紀)
→青柴垣(あおふしがき)神事

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第3章 天孫降臨・日向三代の謎
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天孫降臨は誰が命じたのか? p.86

■そもそも「天孫」という言葉の意味は?

基本的用語:
天孫: 「アマテラス」の孫である「ニニギ」のこと 
 古事記: 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)
 日本書紀:天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)
天孫降臨: ニニギが、アマテラスの神勅により、高天原から地上の統制や天上の稲を地上に普及させるために降臨した
日向(ひむか)三代: 「ニニギ」とその子の「ヒコホホデミ」、ヒコホホデミの子の「ウガヤフキアヘズ(神武天皇の父)」のこと 筑紫(九州)の日向に住んでいいたから、このように呼ばれる アマテラスなどの神々が活躍する時代から神武天皇以下の人間の時代をつなぐ役割を果たしている

■タカミムスヒが命令を下している理由

古事記の天孫降臨:
アマテラスとタカギ(タカミムスヒの別名)は、皇太子のアメノオシホミミに
「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」と言う
アメノオシホミミは、
「天降りの準備をしている間に、子の邇邇藝命(ニニギ)が生まれたので、この子を降すべきでしょう」と答えた
そこで、両神は、
「葦原中国は、お前が統治すべき地だと(お前の父に)命じてある。さあ、その命令に従って地上に行くがよい」と命じた

生まれたばかりの子に重責を担わしている・・・?
アマテラスとともにタカミムスヒも孫に命令を下している・・・?

同じような場面がある
国つ神たちに帰順を求める使者として、アメノホヒを派遣することを決定した場面 
派遣が失敗した際にも、両神は神々に次善の策を問うている

日本書紀での天孫降臨;
アマテラスは登場せず、タカミムスヒが仕切っている
「ときにタカミムスヒの尊(みこと)、真床追衾(まぢこおうふすま)を以って皇孫(すめみま)アマツヒコホノニニギの尊に覆いて降(あまくだ)りまさしむ」
もともとタカミムスヒが、八百万の神々を率いる最高神であったという説がある

■高千穂峯(たかちほだけ)はどこにあるのか? 槵觸(くしふる)神社・霧島神社・高天彦(たかまひこ)神社

ニニギの降臨の場所
日本書紀 日向の襲(そ)の高千穂峰(たかちほだけ) 宮崎県と鹿児島県の県境の霧島山
古事記 筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ) 宮崎県高千穂町

槵觸神社(くしふるじんじゃ) 宮崎県西臼杵郡高千穂町  →槵觸神社
主祭神:ニニギ
天真名井(あめのまない)→天真名井(あめのまない)

霧島神宮(きりしまじんぐう) 鹿児島県霧島市霧島田口  →霧島神宮
主祭神 ニニギ
逆鉾(さかほこ)

高天彦神社(たかまひこじんじゃ) 奈良県御所市北窪  →高天彦神社
主祭神 タカミムスヒ

■神武天皇がタカミムスヒを崇敬した証拠

橿原神宮(かしはらじんぐう) 奈良県橿原市久米町  →橿原神宮
主祭神 神武天皇
橿原宮(かしはらのみや)に神籬(ひもろぎ)をつくって、タカミムスヒ以下の神を祀った
→神武天皇は、ニニギの地上統治の命令を出したのはタカミムスヒであったと考えていたようだ
神籬: 神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの

樫原神社(かしはらじんじゃ) 徳島県阿波市土成町土成 →樫原神社
主祭神 神武天皇(神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ))

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コノハナサクヤヒメが富士の神とされるのはなぜ? p.94

■コノハナサクヤヒメに当てはまるまるバナナ型神話

コノハナサクヤヒメ
アマテラスの命を受けて地上世界に降臨したニニギノミコトから求婚を受ける
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に嫁がせようとしたが、 ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナサクヤヒメとだけ結婚した
父神のオオヤマツミはこれを怒り、私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天つ神の御子(みこ)の命は岩のように永遠のものになるはずであったのに、 コノハナサクヤヒメのみを妻にしたため、木の花が咲き誇るように繁栄はするだろうが、その命ははかないものになるだろうと語った
それで天神の子孫である天皇に寿命が生じてしまったといい、神々の時代から天皇の時代への途中に位置づけられる神話となっている

日本書記の異伝 天つ神の御子(みこ)の命→人間の命

この話のストーリーは、世界各地で見られる「バナナ型神話」の類型に属している
バナナ型神話: 
神が人間に対して石とバナナを示し、どちらかを一つを選ぶように命ずる
人間は食べられない石よりも、食べることのできるバナナを選ぶ
硬く変質しない石は不老不死の象徴であり、ここで石を選んでいれば人間は不死(または長命)になることができたが、
バナナを選んでしまったために、バナナが子ができると親が枯れて(死んで)しまうように、
またはバナナのように脆く腐りやすい体になって、人間は死ぬように(または短命に)なったのである
(スラウェン島(インドネシア)の神話)

この話が記紀に収録され理由
天皇がアマテラスの子孫であり、その代行でもあるにもかかわらず、人間のように死んでしまうことを説明するため

■気概のある妃がとった驚くべき行動

コノハナサクヤヒメは一夜で身篭るが、ニニギノミコトは国つ神の子ではないのではないかと疑った
疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天つ神であるニニギノミコトの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産んだ
 第一子:ホデリ(=海幸彦)、第二子;ホスセリ、第三子:ホオリ(=山幸彦)
ホオリの孫が初代天皇の神武天皇である

日向三代にとっては、山の神、海の神の娘を妃(きさき)に迎え、地上統括を確実にしたと考えられる

■火に包まれる山 富士山本宮浅間大社・北口本宮浅間神社

浅間神社(あさまじんじゃ、せんげんじんじゃ)
富士山の神を祀る
浅間・・・噴火を繰り返す荒々しい山を指す言葉 平安時代頃までは富士山は大規模な噴火が発生していた
万葉集に記載あり 「燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ」(高橋虫麿呂)

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ) 静岡県富士宮市宮町  →富士山本宮浅間大社
神体:富士山(神体山) 主祭神:コノハナサクヤヒメ 別称は「浅間大神 (あさまのおおかみ)」

北口本宮浅間神社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ) 富士吉田市上吉田  →北口本宮浅間神社
主祭神:コノハナサクヤヒメ、ニニギ、オオヤマツミ
ヤマトタケル(第12代景行天皇の皇子)が創建

不思議なことに、古事記にも日本書記にも富士山のことが記されていない
 噴火が激しいために忌避されたか?
 天つ神にも制御できないものが地上にあることを認めたくなかった?

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皇祖神の前に現れるシホツツノオジ p.100

■兄は力を失い、弟は不思議な力を得た

海幸彦(うみのさちひこ): ホノスソリ(日本書紀)、ホデリ(古事記) 宝物=釣り針

山幸彦(やまのさちひこ): ヒコホホデミ(日本書紀)、ホヲリ(古事記) 宝物=弓矢

宝物の交換をする→山幸彦は、釣り針をなくしてしまう→海幸彦は、なくした釣り針を戻すように要求する
とほうにくれた山幸彦の前に「シホツツノオヂ」が現れて、「ワタツミの宮」に行けばいいように教え、船まで与えてくれる
ワタツミの宮に着いた山幸彦は、、ワタツミの娘の「トヨタマヒメ」と相思の間柄になり3年留まる
釣り針を見つけた山幸彦は、和爾(わに)の背中に乗り地上に戻る
ワタツミからもらった潮を操る宝玉(ほうぎょく)を使って、海幸彦を苦しめ、家来にする

■ニニギの前にも神武天皇の前にも現れた塩の神

シオツチノオジ: 古事記では塩椎神(シオツチ)、日本書紀では塩土老翁・塩筒老翁(シオツチオヂ)
・・・製塩に関わる神のように思えるが、記紀にはそのような神話はない

鹽竈神社(しおがまじんじゃ): 宮城県塩竈市 →鹽竈神社
主祭神 シオツチノオジ タケミカヅチ フツヌシ

御釜神社(鹽竈神社境外末社): 宮城県塩竈市 →御釜神社
主祭神 シオツチノオジ 境内には4口の竈(かまど)が安置されており、これらの竈は神代においてシオツチノオジが海水を煮て製塩する方法を人に教えた時のもの

鹽津神社(しおつじんじゃ): 滋賀県長浜市西浅井町 →鹽津神社 主祭神 シオツチノオジ
日本書紀
シオツチノオジは、ニニギの前に現れ、土地を献上している
神武天皇の話では、東に良い土地があることを教え、神武東征を促している

シオツチノオジは、皇祖神意外の神話には登場しないので、天孫のみを導く導く神と考えられていたのではないか

■籠づくりとも関係があるシホツツノオヂ

シオツチノオジは、籠(かご)づくりの祖としても信仰されてきた
籠祖神社(かごそじんじゃ)は、 神田明神(かんだみょうじん)の末社で、本殿の裏に鎮座していた → 八幡神社や富士神社などを合祀して債権(2012)

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神武天皇の祖母トヨタマヒメの正体とは? p.106

■トヨタマヒメが選択した「親離れ」の意味

トヨタマヒメは、出産のために山幸彦である「ヒコホホデミ」のところにやってくる
古事記の説明 「天つ神の御子は海原に生むべからず」との理由でやってきた
→ トヨタマヒメが実家で出産すると、その子供は天つ神の子ではなく、ワタツミ家の子になってしまうから

同じようことが、「コノハナノサクヤヒメ」でもある
「妾(ア)は妊身(ハラ)みて、今産む時になりぬ。この天つ神の御子は、私に産むべからず。かれ請(マヲ)す」
(私は身重になって、やがて出産する時期になりました。この天つ神の御子は、私事として生むべきではありません。だから申し上げます)

子供の帰属の問題
天皇家は始祖のアマテラスを例外として、アメノオシホミミ以降は、父系(男系)で血筋をつないできた
アマテラス → アメノオシホミミ → ニニギ → ヒコホホデミ → ウガヤフキアヘズ → 神武天皇

■トヨタマヒメの正体は 龍か? 鰐か?

トヨタマヒメの出産 「産屋の中を覗くな」、「すべて異界のものは出産時に本来の姿に戻るものなのです」
→ ヒコホホデミは、出産する妻の姿を見てしまい、トヨタマヒメは子供を残して海の中に帰ってしまう

トヨタマヒメの正体
古事記 八尋和邇(やひろわに) (八尋は大きいという意味)
日本書紀 龍、八尋の大熊鰐(わに)、八尋の大鰐
龍か鰐(わに)のいずれかになっている

海の神として龍神(りゅうじん)が出現するのは、鎌倉時代以降
ヤマタノオロチや、蛇神の神は、山に住む蛇神で、海の神ではない
日本書紀の編纂者は、中国の古典に精通していたので、中国にもわかりやすいように龍にした?
天皇家の祖先を鰐にすることに抵抗があり、龍にした?
・・・この「見るなタブー」は神話や民話でのおなじみの題材
黄泉の国にイザナミを連れ戻しに言ったイザナキ
鶴女房の亭主etc.

■鰐はワタツミ一族のトーテムか? 鵜戸神宮

鵜戸神宮(うどじんぐう): 宮崎県日南市宮浦 →鵜戸神宮
主祭神 ウガヤフキアヘズ
洞窟の中に本殿・拝殿が入っている
トヨタマヒメが出産した場所とされる → 龍か鰐に姿を帰るのであれば、産屋は不要のはずである
トヨタマヒメの「本来の姿で出産する」の意味は、姿を変えたのではなく、トーテミズムではなかったか?

トーテミズム: トーテム(totem)とは、特定の集団や人物、「部族」や「血縁(血統)」に宗教的に結び付けられた野生の動物や植物などの象徴のこと
このような社会では、出産や成人式、葬儀なの際に、族長などがトーテムの格好をして儀礼を行う

トヨタマヒメの出産もこのようなものではなかったか?
古代日本のトーテミズム 神武天皇の東征の際の、尾のある人や八咫烏も、トーテムの格好をした族長なのではないか?

八咫烏神社(やたがらすじんじゃ): 奈良県宇陀市 →八咫烏神社
主祭神 カモタケルノミコト(別名 八咫烏)
八咫烏神社の所伝によると、八咫烏は黒い布をまとって木から木へ飛び移る人であったという

■ワタツミの宮は海底ではない? 和多都美神社・若狭姫神社

日本書紀 
ヒコホホデミ(山幸彦)が無目籠(まなしかたま)に乗ってワタツミも宮を目指していたら、 可怜小汀(うましおはま)に着いた
無目籠(まなしかたま): 目を細かくかたく編んだ竹かご 上代の舟の一種

和多都美神社(わたづみじんじゃ): 長崎県対馬市豊玉町 →和多都美神社
主祭神 ホオリ、トヨタマヒメ
社伝によるとワタツミの宮があったところ

可怜小汀(うましおはま)は、美しい小さな浜という意味→ 海底の描写ではない→ 対馬ではないか?
ワタツミが、鰐をトーテムちする島民の長であるとすると、神話が理解できる→ ワタツミは、海を股にかける海人族だった?

若狭彦神社(わかさひこじんじゃ): 福井県小浜市 →若狭姫神社
主祭神 上社:ホオリ(彦火火出見尊) 下社:トヨタマヒメ(豊玉姫命)
日本海は海上交通の大動脈(対馬〜福井県小浜)であったのだろう?

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ニギハヤヒはもうひとりの天孫なのか? p.114

■飛行機に乗って天降ってきた神 飛行神社・磐船神社(いわふねじんじゃ)

磐船神社(いわふねじんじゃ): 大阪府交野市  →磐船神社
御神体 天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」と呼ばれる天野川を跨(また)ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩
主祭神 ニギハヤヒ(饒速日命)
飛行神社(京都府八幡市): 磐船神社から分霊された神社

■ニギハヤヒを祖神として敬った物部氏 石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

石切劔箭神社: →石切劔箭神社 大阪府東大阪市東石切町 
主祭神 ニギハヤヒ(饒速日尊)、ウマシマデ(可美真手命)
社伝 ウマシマデ(ニギハヤヒの子)が生まれ育った地にニギハヤヒを祀った

磐船神社と石切劔箭神社の共通点は、祭神のみでなく、物部市の拠点である

同様な神社が各地にある
物部神社(島根): →物部神社(島根) 島根県大田市
主祭神 ウマシマデ(宇摩志麻遅命) 県内では出雲大社に次ぐ大きさ

物部神社(名古屋): →物部神社(名古屋) 愛知県名古屋市東区筒井 
主祭神 ウマシマデ(宇摩志麻遅命)

石上神宮(いそのかみじんぐう): →石上神宮 奈良県天理市布留町
主祭神 フツノミタマオカミ(布都御魂大神) 神武天皇が大和へ入るにあたって,熊野で難にあったとき,アマテラス(天照大神)の命令でタケミカヅチ(武甕槌)神が天より下した神剣韴霊(ふつのみたま)の霊

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ): →石上布都魂神社 岡山県赤磐市 
主祭神 スサノオ(素盞嗚尊)

一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ): →一之宮貫前神社 群馬県富岡市一ノ宮 
主祭神 フツヌシ(経津主命)、姫大神(主祭神の妻や娘)

物部氏が、軍事や神事を職務とし、朝廷で勢力を持っていた証となっている

■天孫の証拠を見せ合う神武天皇とニギハヤヒ

ニギハヤヒ 河内国に天降り(あまくだり)、ナガスネヒコの妹を妃に迎える
神武天皇 東征の途上で「ナガスネヒコ」と武力衝突 → 兄が戦死、退却 
→ 熊野経由で大和入り →  ナガスネヒコを破る
古事記、日本書紀、物部氏の伝承(先代旧事本紀)で異なる

古事記: 「ナガスネヒコ」が討たれた後、天つ神の子である証拠(天津瑞 あまつしるし)を持参し帰順

日本書紀: 戦いの途中で「ナガスネヒコ」が神武天皇へ使者をだす
「自分は天磐船で下ってきた「ニギハヤヒ」という天つ神の御子に仕えている。お前も天つ神の御子というが偽物だろう。」  このやり取りで神武天皇が天孫であることを知った「ニギハヤヒ」は、「ナガスネヒコ」を殺して、神武天皇に恭順する

物部氏の伝承(先代旧事本紀): 日本書紀とほぼ同じであるが、殺したのは「ウマシマデ」としている
また、「ニギハヤヒ」は「ニニギ」と同じアマテラスの孫としている・・・日向三代の神系譜と異なる
(物部氏が自らの出自をよくみせるため「ニギハヤヒ」の系譜を書き換えた?)

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第4章 神武東征・建国神話の謎
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神武天皇の東征を助けた神剣フツノミタマとは? p.122

■神剣フツノミタマの行方

神武天皇が熊野から畿内に攻め入ろうとしたとき、熊野の山の荒ぶる神により意識を失う
高天原から見ていたアマテラスは、「タケミカヅキ」に救援に行けと命じるが、「タケミカヅキ」は自分が行かなくても、神剣「フツノミタマ」を下ろしてやれば十分だと答える

「フツノミタマ」は、神武天皇に直接渡されたのではない
熊野に住む高倉(たかくらじ)のもとに下され、彼が神武天皇に手渡ししている

古事記 神武天皇が剣を受け取った瞬間、荒ぶる神は斬り殺されたという

物部氏の伝承(先代旧事本紀) 神剣「フツノミタマ」は、「ウマシマデ(ニギハヤヒの子)」に授けられる 
→ 宮中で「フツノミタマ」を用いた祭祀が行われていたが、第10代崇神天皇(すじんてんのう)の御代に「ウマシマデ」の子孫で、物部氏の祖である伊香色雄(いかがしこお)が、石上神宮(いそのかみじんぐう)に移した

■古代の神宝庫・武器庫 石上神社

石上神宮(いそのかみじんぐう): →石上神宮 奈良県天理市布留町
主祭神 フツノミタマ(布都御魂)
第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代 皇子の五十瓊敷(いにしき)は石上神宮の神宝の管理を司った 老いを感じた五十瓊敷は妹の大中姬(おおなかつひめ)に役を譲ろうとするが、大中姬は物部十千根(もののべ の とおちね)に譲ってしまう
第40代天武天皇(てんむてんのう)は、忍壁皇子(おさかべ の みこ)に命じて、石上神宮の神宝を諸氏族の家に返却させた
→ 諸氏族が朝廷に帰順した際に、服従のしるしとして献上した宝物が、石上神宮に納められていたことを表している
その後、第50代桓武天皇(かんむてんのう)の御代 残りの宝物・武器うを移動した際に、延べ15万7000人を要したという
石上神社は、古代の神宝庫・武器庫 → これを管理していたのが、物部氏であった

■武器の扱いに長けていた物部氏

「タケミカヅキ」と「フツヌシ」は物部氏が奉斎した神
神剣フツノミタマは、物部氏の総氏神の石上神社で祀られている
鹿島神宮(物部氏が奉斎)にも、フツノミタマと呼ばれる巨大な剣が神宝として奉安されている

→神武東征は、物部氏の力によって達せされたとも言えそうである

物部氏 神宝、とくに神剣の扱いに長けていた→軍事・警察も司るようになった
七支刀(しちしとう)も石上神社に納められている
物部八十氏: 物部氏に従う氏族→各地に物部氏の根拠地をつくる

■物部氏の功績は消されてしまったのか?

物部氏 排仏を主張
蘇我氏 仏教受容を主張 蘇我馬子により物部氏は滅ぼされる →中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターで滅亡

物部氏の利権→蘇我氏→中臣氏→藤原氏に移る
物部氏が奉斎していた「タケミカヅキ」と「フツヌシ」も藤原氏の神とされた
日本書紀編纂時に最高権力者であった藤原氏にとって、上記の経緯は隠匿しておきたいことであったと推測される

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神武天皇が行わせた謎の女装儀礼とは? p.130

■香具山に鎮座する占いの神 天香久山神社・武蔵御獄神社

奈良県の大和三山: 香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)

天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ):  →天香山神社 奈良県橿原市南浦町
主祭神 櫛真智命(くしまちのみこと) 占いの神 神体 天香久山
亀卜(きぼく)が行われていた 亀卜: カメの甲羅を使う卜占(ぼくせん 占い)の一種

武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ):  →武蔵御嶽神社 東京都青梅市(旧武蔵国多磨郡)
主祭神 櫛真智命
太占(ふとまに)が行われている 鹿の肩甲骨に傷を付けて火で焼き、亀裂の入り方で吉凶などを判断する占の一種

わが国では、古くからシカの肩骨を焼いて占う太占(ふとまに)の法が行われていた
中国から亀卜の占法が伝えられた

■日本書紀に描かれている神武天皇の苦戦の様子

熊野から大和に入った神武天皇の平定の道のりは険しかった

敵の陣中の中で進むことが出来ない状況の中で、天皇の夢に天つ神が現れ、
「天香山の社の土を取ってきて、平瓮(ひらか)80枚と御神酒をを入れる瓶をつくって天と地の神様を祀り、身を清めて呪咀(じゅそ)しなさい。そうすれば、敵はもな降伏するだろう。」と言った  平瓮:古代に用いられた平たい土製の容器

このとき天香山は、敵の支配下にあったので、帰順してきた敵の族長に弟と臣下を老婆に変装させ、土を取ってこさせ、神武天皇は夢のとおりに、天と地の神様を祀り、さらに「タカミムスヒ」を祀った

天皇は、大友道臣(おおともみちおみ)に、「今からタカミムスヒの尊を顕斎(うつしいわい)する。お前を斎主(いわいぬし)とするので、名前も厳姫(いつぃひめ)と呼ぶことにする。」と言う 顕斎:祭祀を行うにあたり、現身の人間を祭祀の対象である神に見立てることをいう

■女の名前がつけられた理由

大友道臣の名前を女の名前に代えただけでなく、女装もさせたものと推定される
戦争祈願のために巫女を同伴するのはめずらしいことではない
女装→尋常ならざる力を発揮するためと考えられる

日本書紀 熊襲(くまそ)討伐時、「ヤマトタケルの尊(みこと)、髪を解きておとめ童女の姿と作りて」→宴会に忍び込む
古事記 このとき身につけた衣装は、アマテラスに仕えていた倭姫(やまとひめ)のもの

古代の日本 性は霊力と結びついていると考えられていた 女性の性は神を招くのに必要なもの
神武天皇は、大和盆地平定のために、この戦いに勝たねばならず、女装の巫女という奥の手を用いたと推測される

丹生神社(にゅうじんじゃ 奈良県宇陀市榛原)が、神武天皇の顕斎の場所とされている

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神武天皇の皇后選定をめぐる裏事情とは? p.138

■神武天皇の皇后の驚くべき名前とは?

初代天皇・神武天皇即位 橿原宮にて辛酉年1月1日に即位して初代天皇に成る そして正妃を皇后とした 即位日は紀元前660年2月11日であり、日本の「建国記念の日」(旧:紀元節)となっている

初代天皇・神武天皇の皇后:
日本書紀 ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)
古事記  ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売) はじめ「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)という名であったが、のちに改名されたことが示されている

古事記にみる誕生時の逸話:
美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。
爾其美人驚而、立走伊須須岐伎、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、。
(意味)美和の大物主神(大物主)は、美しい勢夜陀多良比売を見初めた。大物主は赤い矢(丹塗りの矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、ほと(陰所)を突いた。
驚いた勢夜陀多良比売が、立ち上がって、その矢を自分の部屋に持ち帰り、床に置くと、たちまち美男子の姿になった。そして(二人は結ばれ)勢夜陀多良比売は子を産んだ。

■皇后はオホモノヌシの子か? コトシロヌシの子か?

オホモノヌシ
コトシロヌシ
いずれも出雲系の神
皇后の父が出雲の神 → 天皇家には出雲の神の血が流れている
天つ神の血筋が薄まるのではなく、出雲をも勢力下に置くことを意味する

■ほとを突いて死ぬ美女たち 溝咋神社(みぞくいじんじゃ)・ 箸墓古墳(はしはかこふん)

古事記・日本書紀 皇后の母が三島の溝咋の娘 溝咋神社(みぞくいじんじゃ): →溝咋神社 大阪府茨木市
主祭神 玉櫛媛命、媛蹈鞴五十鈴媛命

箸墓古墳(はしはかこふん):  →箸墓古墳 奈良県桜井市箸中
百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが名前の由来

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第5章 歴代天皇の謎
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「古事記」はなぜ伊勢神宮創建神話を語らないのか? p.146

■ふたりの皇女の旅 檜原神社(ひばらじんじゃ)・ 籠神社(このじんじゃ)

日本書紀 アマテラスから天降(あまくだ)ろうとしているニニギへ命じた
「この宝鏡(ほうきょう)を私を見るようにして祀りなさい。あなたが寝起きする宮殿に奉安して身を清めて祭祀を行いなさい」

宝鏡 ニニギ →日向三代の宮殿 →神武天皇 →・・・歴代天皇の宮殿 →第10代崇神天皇

鏡に宿るアマテラスの霊威が強すぎるため宮中の外で祀ることにした
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと 崇神天皇の皇女)に鏡が託される
大和の笠縫邑(かさぬいむら)でアマテラスを祀った・・・場所は不明 → 檜原神社とする説が有力

檜原神社(ひばらじんじゃ):  →檜原神社 奈良県桜井市三輪

その後、豊鍬入姫命は、丹波・紀伊・吉備と場所を変えて祭祀を行う
丹波での滞在先が籠神社(このじんじゃ)

籠神社(このじんじゃ): →籠神社 京都府宮津市大垣

第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代に、垂仁天皇の皇女の倭姫(やまとひめ)に役割を譲った
倭姫の伝説
倭姫は、近江・美濃とめぐり伊勢に入る
アマテラスの「伊勢は常世の国から波が打ち寄せる美しい国だ。ここにいたいと思う。」とういう託宣を受けて、ここに社を建てた → 内宮(ないくう)の起源

■古事記が無視した皇女たちの遍歴

日本書紀
二人の皇女のアマテラス鎮座地を求める旅 → ヤマトタケルの東征
神武東征譚(たん/はなし)の伏線になっている

ヤマトタケルは、東征に先立って伊勢神宮を参拝し、叔母の倭姫(やまとひめ)から「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」を授かる
伊勢神宮に「草薙の剣」があったのは、八咫烏とともに皇女たちが運んできた

元伊勢(もといせ)・・・伊勢神宮創建以前にアマテラスの神霊が鎮座していた地(神社)という意味 → 二人の皇女が滞在した場所

古事記
この話に全くふれていない → 意図的に無視していると推測される

■伊勢神宮は神代に創建された?

古事記による伊勢神宮創建の話
天孫降臨の場面:
「ここにアメノコヤネ命、フトダマ命、アメノウズメ命、イシコリドメ命、タマノオヤ命の合わせて五伴緒(いつとものを)を従えさせて、天降りをさせた。
また、アマテラスを天の岩屋から誘い出すのに用いた八尺の勾玉(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))、鏡(八咫鏡(やたのかがみ))、また草那藝の剣をもたせ、オモヒカネ、タヂカラヲ、アメノイハトワケも随伴させることとし、こうお告げになった。「この鏡を私の神霊だと思って私に対するのと同じようにお祀りしなさい。オモヒカネは政(まつりごと)を司(つかさど)りなさい。この二柱の神は、五十鈴の宮(伊勢神宮内宮)をお祀りしている。次に、トユウケは度会(わたらい)の外宮に鎮座する神である」

・・・わかりにくい文になっている この二柱の神はどの神か? 内宮を祀っているというのは天孫降臨直後のことなのか?

日本書紀の皇女のアマテラス鎮座地を求める旅を信じると、伊勢神宮はまだ存在していないはずである

古事記は、「伊勢神宮は神代からある」と主張したいために、微妙な表現になったのではないだろうか?
(アマテラスの総本宮はどこよりも古いのだ・・・「倭姫の伝説」が広く知られていたのので、それにそった読み取りも可能なように表現した?)

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ヤマトタケルは本当に悲劇のヒーローか? p.152

■古事記に描かれるヤマトタケル像

古事記のヤマトタケル像
第11代景行天皇(けいこうてんのう)の皇子 名前は「小碓(おうす)」、兄は大碓(おおうす)

大碓を素手で引き裂きこりしてしまったことから、天皇に恐れられ、熊襲討伐を命じられる
叔母の倭姫から授かった衣装で熊襲の領主・熊襲健(くまそたける)兄弟を打ち破り、討った相手から「ヤマトタケル」の称号を与えられる

出雲の出雲健(いずもたける)も討って帰国したヤマトタケルは、今度は東の12国の平定を命じられる

ヤマトタケルは、倭姫を訪ね「天皇は私が死ねばいいと思っているのです」と泣く
倭姫は、草薙の剣と小袋を渡して「危急のときはこれを開けなさい」といって征伐に送り出す

ヤマトタケルは、東征を成し遂げ、尾張で「美夜受比売(みやずひめ)」と結ばれる
そして、草薙の剣を美夜受比売のところに置いたまま伊吹山の神を退治に行ったため、祟(たた)りで病となり、病に倒れた
不自由な身体を引きずり、伊勢国能褒野(のぼの)にたどり着くも、ここで力尽きる

望郷(ぼうきょう)の歌
・ミヤズヒメのいる尾張の国に向いてる尾津岬の一本松よ。なあ、一本松よ。お前が人間だったら、この刀をつけてやれるのに。この着物を着せてやれるのに、なあ、一本松よ。
・大和は、日本の中でもっともすばらしいところだ。長く続く垣根のような青い山々に囲まれた大和は、本当に美しい。
・命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉を かんざし(=当時は魔除けとして使われた。)として挿すがよい。
・私がミヤズヒメの寝床(ねどこ)に置いてきた、草薙の剣。ああ、あの太刀はどうしただろうか。

■日本書紀に描かれるヤマトタケル像

日本書記のヤマトタケル像
(1)兄の大碓(おおうす)を殺していない
景行天皇に「先に私は西征を任されて功名をあげることがぢきました。今度は大碓の番でしょう。」と言っている。
ところが、大碓は隠れて引き受けようとしないので、再び赴くことになる

(2)征討に悲壮感がない
東征について「大変な任務ですが、さっさと乱を平定してきましょう」と意気揚々と旅立つ
倭姫のところでは、武人らしい別れの挨拶をしている
倭姫も草薙の剣を渡しながら「注意して、しっかり努めなさい」と鼓舞している

(3)ヤマトタケルと景行天皇の関係が良好である 
「形はわが子だが、実態は神だ」とまで言っている

こうした違いはどうして生じたのだろうか?

■ヤマトタケルは天皇だった?

景行天皇の章のヤマトタケル伝以外の箇所
古事記 景行天皇の事績について何も語っていない ヤマトタケルの子孫の記事で締めくくり 
→ ヤマトタケルを限りなく天皇として扱っている

日本書紀 景行天皇が勇武の天皇であるこを記している(土蜘蛛、熊襲の討伐) 
→ ヤマトタケルを景行天皇の皇族の武人として扱っている 景行天皇は、ヤマトタケルの死を惜しみ、その功績を後世に伝えるために「建部(たけるべ)」を創設 

建部大社(たけべたいしゃ):  →建部大社  滋賀県大津市神領
主祭神 ヤマトタケル(日本武尊) 大己貴命(オオクニヌシ)

■ヤマトタケルは天皇に奉祀(ほうし)する武人の理想像となった  奉祀(ほうし):神仏・祖霊などをまつること

ヤマトタケルは天皇に奉祀(ほうし)する武人の理想像となった 半神半人の英雄

軍事上の要衝にヤマトタケルの伝承を持つ神社が鎮座している
熱田神宮(あつたじんぐう):  →熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮
主祭神 熱田大神
神体 草薙神剣(草薙剣) ヤマトタケルの死後、美夜受比売(みやずひめ)が草薙の剣を祀った

草薙神社(くさなぎじんじゃ): →草薙神社  静岡県静岡市清水区草薙
主祭神 日本武尊

焼津神社 ( やいづじんじゃ) : →焼津神社  静岡県焼津市焼津
主祭神 日本武尊
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神功皇后(じんぐうこうごう)の遠征の帰路が詳述されているのは、なぜ? p.160

■最高レベルに特別扱いされる神功皇后(じんぐうこうごう)

古事記
第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の章でも、景行天皇の章と同じことをしている
仲哀天皇は古事記に登場後まもなく崩御され、以降は神功皇后(じんぐうこうごう)の話が延々と続く → 神功皇后を天皇に準ずる扱いとしている

常陸国風土記: 神功皇后は、第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたが、大正15(1926)年の皇統譜令に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された

神功皇后はどうしてこれほどまでに特別待遇をうけていたのだろうか?

■不思議な力を使って新羅遠征を成功に治める

神功皇后の活躍
熊襲討伐に天皇と同行し、神の言葉を受け取ることができた
「西のほうにある国がある。そこは金銀をはじめ輝く宝石であふれている。その国を授けてやろう。」

天皇はそのお告げを信じず、「西には海があるばかりだ」と言ってしまったため、神罰があたり命を失ってしまう
神功皇后は穢れを祓う儀礼を行い、もう一度神にお告げをしてくれるように願った

「この国はお前のお腹に宿っている子どもが統治すべきだ」というお告げがあった
「そのように教えてくださるあなた様は、なんという神様なのですか?」と問う

「これはアマテラス大神の御心(みこころ)である。また、ソコツツノオ(男神)・ナカツツノオ(男神)・ウワツツノオ(男神)の三柱の大神の御心である。天の神、地の神、山の神、川の神などもろもろの神に捧げ物をして祀り、我が神霊を船に乗せ、槇の木の灰を入れた瓢箪(ひようたん)や箸・皿などを用意して、これらを海に撒きながら渡るとよい。」と神は答える
→ そのとおりにすると順調に航行し、上陸後、新羅の半ばまで進み、新羅の王は降伏し、朝貢を約束させた (朝貢:朝廷に貢ぎ物をすること)

神功皇后は、筑紫に戻り皇子(後の第15代応神天皇)を出産

■古事記と日本書紀で描かれ方が違う神功皇后(じんぐうこうごう)

古事記
少年時代の応神天皇が氣比神宮(けひじんぐう)を参拝したところで、神功皇后の章が終わっている
神功皇后は、強力な神々に守られ、奇跡も起こす神話的人物として描かれている

日本書紀
上記のあと56年にわたって神功皇后の治世の様子を詳しく述べている
「魏志倭人伝」を引用し、神功皇后と卑弥呼が同一人物であることを暗に示そうとしている
神功皇后は、神の声を聞く霊力はもっているものの、神々の助力と有能な臣下の働きで危機を回避し、問題を解決する聖王として描かれている

■新羅遠征の帰路で次々と神社が創建された理由

新羅遠征の帰路の描写にも大きな違いがある
日本書紀のみに詳細に語られている

立ち寄った先々で神社を建立している(創建ラッシュ)

遠征軍に従事したソコツツノオ(男神)・ナカツツノオ(男神)・ウワツツノオ(男神)の三柱の神は、皇后にこう教えた。 「我が荒魂(あたたま)を穴門(あなと)の山田邑(やまだむら)に祀れ」
住吉神社(すみよしじんじゃ):  →住吉神社(下関)  山口県下関市
主祭神 住吉三神、応神天皇、武内宿彌命、神功皇后、建御名方命
日本書紀・神功皇后摂政前紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が神託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。

アマテラスが皇后に教えて言われた 「我が荒魂(あたたま)を皇后の近くに置いておくのはよくない。御魂を広田国に鎮座させるるのがよい」
神道における概念で、神の霊魂は荒魂と和魂の2つの側面がある 
荒魂:神の荒々しい側面、荒ぶる魂  和魂:神の優しく平和的な側面

廣田神社(ひろたじんじゃ):  →廣田神社 兵庫県西宮市大社町
主祭神 天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)

ワカヒルメが教えて言われた 「私は活田長狭国(活田長峡国(いくたのながおのくに)にいたいと思う」
生田神社(いくたじんじゃ):  →生田神社 兵庫県神戸市中央区下山手通
主祭神 稚日女尊

コトシロヌシが教えて言われた 「わが御魂を長田国に祀れ」
長田神社(ながたじんじゃ):  →長田神社 兵庫県神戸市長田区長田町
主祭神 事代主神

ナカツツノオ(男神)・ウワツツノオ(男神)の三柱が教えて言われた 「我が和魂は大津の渟名倉(ぬなくら)の長狭(ながお)に鎮座させなさい」
住吉大社(すみよしたいしゃ):   大阪府大阪市住吉区住吉
主祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后

このように、立ち寄った先々で神社を建立 → 各地の豪族たちが、神功皇后の政治活動を支えていたと推測される

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応神天皇はなぜ八幡神となったのか? p.168

■隣接する誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)と応神天皇稜

誉田八幡宮と応神天皇稜は、橋で往来できるようになっている(現代は秋の大祭の渡御神事のみ) 誉田八幡宮(こんだはちまんぐう):  →誉田八幡宮 主祭神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇
社伝では第29代欽明天皇の勅願により建立(559年)、古墳祭祀を起源との説もある
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〜紀元前14000年頃: 旧石器時代
前14000年頃〜前10世紀: 縄文時代
前10世紀〜後3世紀中頃 弥生時代
3世紀〜7世紀: 古墳時代
592年〜710年: 飛鳥時代
794年〜1185年: 奈良時代
10世紀初頭〜12世紀後期: 平安時代
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■少年時代に行った神との名前交換

八幡神(やはたのかみ)は、誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる
記紀(古事記・日本書紀)には、八幡神の記述がない

日本書紀
応神天皇が氣比神宮(けひじんぐう)を参拝した際、夢に神が現れ名前を交換した
「このとき、大神と太子は名前を交換された。その結果、大神はイザサワケとなり、太子はホムタワケとなった。しからば、神の元の名はホムタワケであり、太子はイザサワケであったというべきだ。しかし、参照すべき文献はなく、詳らかにはできない。」
→ 謎が多い記述であるが、応神天皇が神に準ずる存在と考えられていたと推測される

八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祭神とする神社 全国に約44,000社

■応神天皇はなぜ八幡神と同一視されたのか?

八幡神(やはたのかみ)が文献に登場するのは、「続日本紀(しゃくにほんぎ) 799」以降
しかし、八幡信仰は古代にさかのぼる
宇佐神宮(うさじんぐう):  →宇佐神宮  大分県宇佐市
主祭神 八幡大神(応神天皇) 比売大神 神功皇后
創建 神亀2年(725年)
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社

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仁徳天皇と職能集団との関係とは? p.174

■仁徳天皇が死を惜しんだ中国出身の織女(しょくじょ)

応神天皇 中国の呉から技術者を招聘したが、崩御され、仁徳天皇に受け継がれた
裁縫 兄姫(えひめ) 弟姫(おとひめ)
機織 呉職(くれはとり) 穴職(あなはとり)

呉職、穴職が没したため、仁徳天皇は社を建て霊を祀った

呉服神社(くれはじんじゃ):  →呉服神社 大阪府池田市室町
主祭神 呉服大明神、仁徳天皇

伊居太神社(いけだじんじゃ):  →伊居太神社 大阪府池田市綾羽
主祭神 穴織大明神、応神天皇、仁徳天皇 ■仁徳天皇が命じた人柱の意外な結末とは? 堤根神社(つつみねじんじゃ)

日本書紀 仁徳天皇11年10月の記事 「天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた」
どうしても決壊してしまう場所が2か所あり、工事が難渋した。
このとき天皇は「武蔵の人強頸(こわくび)と河内の人の茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の二人を、河伯(川の神)に生贄として祭れば成功する」との夢を見た。
そこで早速二人が探し出され、それぞれの箇所に1人ずつ人柱に立てられることとなった。
コワクビは泣き悲しみながら入水していったが、コロモコはヒョウタンを河に投げ入れ、「自分を欲しければ、このヒョウタンを沈めて浮き上がらせるな。
もしヒョウタンが沈まなかったら、その神は偽りの神だ」と叫んで、ヒョウタンを投げ入れた。
もちろんヒョウタンは沈まず、この機知によってコロモコは死を免れた。v 結果として工事が成功した2か所は、それぞれコワクビの断間(こわくびのたえま)・コロモコの断間(ころもこのたえま)と呼ばれた。
→人柱という迷信を打破した話とも読める

茨田堤の一部が境内にある堤根神社(つつみねじんじゃ)
堤根神社(つつみねじんじゃ):  →堤根神社 大阪府門真市 主祭神 彦八井耳命、菅原道真
■応神〜仁徳朝の産業革命を支えた渡来系部族

当時の大和朝廷 大規模土木工事(応神天皇稜、仁徳天皇陵・・・)を実施 職能集団(土師部、玉造部、鏡作部)が発展

仁徳天皇 民のかまど伝説
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られている

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雄略天皇 (ゆうりゃくてんのう)はなぜ三輪山(みわやま)の神をとらえさせたのか? p.180

■御諸山(みもろやま)の神の正体を知りたがる雄略天皇

日本書紀 雄略天皇7年7月の条
天皇は少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)に命じて言われた。「朕は御諸山(みもろやま)(三輪山)の神も形を見たいと思う。お前は腕力が人よりすぐれて強いので、行って捕らえてこい。」
蜾蠃は答えた 「試しに行って捕らえてみましょう。」
そして、大蛇を捕まえ、天皇にご覧にいれた
天皇は斎戒(さいかい)をせずに見ようとしたが、大蛇は雷のような音を出し、目を輝かせていたため、天皇は蜾蠃に命じて、大蛇を丘に放させた

■雄略天皇が葛城山(かつらぎさん)で遭遇したヒトコトヌシとはどんな神か?

雄略天皇の葛城山での狩りでの出来事
古事記 天皇がヒトコトヌシを畏れているように記述
日本書紀 天皇とヒトコトヌシは同等の態度で記述
続日本紀 神が老人の姿で現れ、狩りの邪魔をしたので土佐に流罪になったと記述 神はトコトヌシと考えられる

土佐神社(とさじんじゃ):  →土佐神社 高知県高知市一宮
主祭神 味鋤高彦根神 一言主神

■雄略朝で神社界に何が起こったのか?

もともと神社は、豪族などその地域の有力者が祭祀するもので、朝廷はその祭祀などに直接かかわってこなかった
しかし、雄略朝では、倭国内をほぼ掌握したので、地域の内政にも関与するようになってきた

おわりに

古事記と日本書紀の違い
日本書紀
(1)本文の他に「一書に曰く(あるふみにいわく)」と異伝を併記している
(2)冒頭の神が古事記と異なっている
(3)出雲神話の部分が少ない
(4)高天原は一回のみの記述となっている

(私見)
編纂時期に差があること、後で編纂された日本書紀が国外を強く意識して体裁を整えていることを考えれば、 本居宣長の述べている「古事記は、漢意(からごころ)に染まらない、いにしえの心を素直に表現した大和心(やまとごころ)の書である」に賛同できる。

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渋谷申博:「神社に秘められた 日本書紀の謎」