内容

数学の基礎付けである数学基礎論なしでは数学は語れないのでそこから始めますが、 数学の哲学という分野があるとしたならば、私は形式主義になります。 形式主義がゲーデルの不完全性定理は証明にによって終焉したかのように考えるかもしれませんが ヒルベルトはゲーデルの証明を受けてもっと強いものにしなけばならないと「数学の基礎」ヒルベルト・ベルナイス著  吉田夏彦・渕野昌訳 シュプリンガー・フェアラーク東京 で言ってるように ヒルベルトとはもちろん違う方法ですがゲーデルとの型理論の解釈の違いで、 ゲーデルの不完全性定理の証明においてリシャールの二律背反とのアナロジーが注意をひくとあるように、 そのまま受け取ればゲーデル数化した時点で型理論に反しますし、 嘘つきのパラドックスとも密接な関係があると言っているのをそのまま受け入れれば強引過ぎますが 次の小論「ゲーデルの不完全性定理の回避」で、 規則を変えればゲーデルの証明さえ成り立たないかもしれませんが、私の型理論(多分、私の解釈が間違っている)を 数学全般的に展開することは出来ませんが、 例えば、ユークリッド幾何学の平行線の公理を肯定しても、否定して非ユークリッド幾何学が成り立つように どちらも完全だと思われます。 言語哲学になってしまいますがウィトゲンシュタインの言語ゲームや ナーガールジュナの言葉の本質はわからないような。 完全か不完全かはそれぞれの公理的体系を考慮し判断すべきことだと考えられます。 ゲーデルの不完全性定理に戻りますが不完全性定理の拡大解釈になるかもしれませんが、 全ての定義をゲーデル数化していると言われるかもしれませんが 公理的体系にはアプリオリな公理が記述されない場合には ゲーデル数化出来ない公理などが生出しますが、その場合には証明にならないのではないでしょうか。 ゲーデルの不完全性定理は自己言及のパラドックスとしか思えません。 例えばタルスキは真理論に言及しているがそれを無視して、日常言語の範疇となって的外れな議論だが。 文「雪は白い」が真であるのは、雪は白いときまたそのときに限る。 雪は白いでアプリオリに真理論だと思うのだが。やはり的外れですね。 公理的体系とはメタ数学とはとかもっと思考すべきでしょうが、今の時点ではここまでです。 つづく、・・・